2022年11月8日火曜日

ある女性歌手に

 ある女性歌手に

 

 

君に恋して、

君の話す外国語に憧れた。

それだけじゃない、

ぼくも君のように歌いたいと願った、18の冬。

それから間もなくしてぼくは無謀にも、

にわか仕込みの君の国の言葉でもって、デタラメに歌の歌詞を書き始めた。

君は遠くに光り輝いていた。

ぼくは東洋の無作法な貧乏ロッカーにすぎなかった。

行く先の見えない東京の街の真ん中で、

ひとりもがいていた。

君の住むあの国は、

遠い憧れの約束の地になっていた。

でも、

ある人の自殺を引き金に、

君はあるときから、

歌うのをすっかり止めた。

行方もわからなくなってしまった。

それで、

君を想いながら書き溜めたぼくのソングリリックは、

聞かせる相手もいなくなってしまった。

だからぼくは全部破り捨てた。

それから数年経って、

ぼくは、

雪積る冬に初めて君の国を旅した。

初めて来たのに、

なんだか懐かしく思えた。

君の面影を追って、

繁華街をぶらついたりした。

当たり前のように、

君を見つけることはできなかった。

2週間ばかり滞在し、

帰りの飛行機に乗ってからも、

ぼくの脳裏には君の歌声が流れていた。

それからまた10年ほども過ぎたある日、

もはやロッカーは辞めてしまっていたぼくの下に、

突然君からの手紙が届いた。

君は母親になって家族ができ、

家族旅行に出かける直前に、

ぼく宛に手紙を書いてくれたのだった。

文面はとてもはきはきしていて、幸せそうだった。

ぼくは君の歌の入ったCDを取り出して、

久しぶりにステレオでかけてみた。

ぼくの人生を変えた君との、

不思議な縁を思いながら、

しばらくじっと聴き入っていた。

それはぼくだけの、

けっして忘れることのない宝だった。

またいつか、

君は歌うだろうか?

またいつか、

ぼくは歌うことができるだろうか?

君がくれた青春の夢の残り香は、

今でもぼくの中にある。



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